第8回|ダバオで児童養護施設「ハウスオブジョイ」を運営する澤村さんにインタビュー

フィリピンで暮らす日本人の皆さんに「フィリピンへ移住したきっかけ」や「現地での仕事、ビジネス・生活事情」などをインタビューし、フィリピン移住の魅力や生活する上での厳しさ、メリット、デメリットなど、移住者の皆様にご協力いただきリアルな実体験をお届けする大好評の「移住者に聞くフィリピン海外生活」。
コロナ禍で自由に行き来することは難しい状況ですが、現在もフィリピンで生活する日本人はたくさんいらっしゃいます。リタイアされた方・フィリピンで会社やお店を経営されている方・投資家・日系企業で働いている方やIT関係のお仕事・フィリピンを拠点にリモートで働くフリーランスの方、現地の方と結婚をされフィリピンで暮らしている方など様々です。またフィリピンへ移住するきっかけも皆さん様々。非常事態宣言が継続される中、フィリピンで新しい事業を立ち上げられる方や移住を検討されている方も少なくありません。住めば都、そして一度訪れるとその魅力にはまってしまう不思議なフィリピンですが、
今回で第8回目を迎え、前回インタビューさせていただいた「鮎澤さん」より移住の輪のバトンを繋いでいただき
フィリピンのミンダナオ島(ダバオ)でフィリピン政府福祉局 NGO認定「ハウスオブジョイ」を運営する「澤村 信哉さん」にインタビューさせていただきました。
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子供の頃に触れた異文化がフィリピンへの興味、憧れとなりフィリピンへ
子供の頃に出会ったフィリピンの人たち、そして異文化に衝撃を受け英語や音楽に興味を持ったのが移住のきっかけとなる
私の親がキリスト教で、子供の頃から日曜日はいつも家族で教会に行っていました。
お祈りが終わると何やらガヤガヤとギターを弾いたりして、すごく楽しそうにしている人たちがいるんです。
彼らはフィリピン人でした。
そこは千葉なのですが、当時、工場や夜のお店で働く「フィリピン人の方たちが集まる場」となっていたんです。
私は、子供ながらに異文化に出会ったことにすごく衝撃を受けました。
そのフィリピン人たちをみて、英語や音楽に興味を持ち、フィリピンや外国への憧れも持つようになりました。
中高時代、不良が多い学校は、まさにサバイブでした。(笑)
サバイブすることもフィリピンの人に教えてもらった気がします。
大学の夏休みにボランティアツアーに参加しミンダナオへ
大学一年の夏休み、様々なことを教えてくれたフィリピンに恩を感じていた私はフィリピンを訪れることを決意。
NGOのボランティアツアーに参加し、ミンダナオ島の「マティ」という町を訪れました。
職業訓練校の山羊小屋を建てるプロジェクトだったのですが、とてもいい経験ができました。
しかし、私はそこで「肉体労働はフィリピンの役に立たない」ということを感じました。
ここで私が役に立ってしまったら、現地の若者の仕事を奪うことになる。
私は「何すればいいだろう。」ということを考えるようになりました。

ボランティアツアーを一旦終え、再びフィリピンへ貧乏旅行
今回はあえてヒッチハイクによる貧乏旅行をしました。
マニラからスタートして、バギオ、タガイタイ、インファンタケソン、バスに乗ってマヨンボルケーノ、フェリーに乗ってミンダナオ、サマール、レイテ、カミギン、セブ、ボホールなどを訪れました。移動には漁師に交渉したりもしていましたね。
もう25年前なので、インターネットもなければ誰も携帯電話を持っていない時代です。
電話する時は郵便局に行かなければならないし、今以上の口コミの時代でしたね。
ちょっと騙されてぼったくりにあったりすることはありましたが、危険を感じることはありませんでした。
バックパッカーをしている時に「フィリピンで孤児院を作った日本人がいる」という話を聞き、孤児院といえば、ユニセフとか教会、聖者か偉人がやるものだと思っていたのでどんな方か大変興味を持ち会いにいきました。
それがこの「ハウスオブジョイ」です。代表者は「烏山さん」という普通の人。
孤児院の運営といえば、自分の人生、楽しみを犠牲にしてやるものだと思っていたのですが、本人はすごく人生を楽しんでいました。
まずは、大学生にして「自分の人生を投げなくてもできる。」ということを烏山さん教えてもらいました。
私は烏山さんとじっくり話をさせてもらいました。
烏山さんは、大学で農業を学び、海外青年協力隊を経て現地の人と結婚。
日本の商社で10年以上働き人脈築いてから、念願の孤児院を建てたそうです。
またフィリピンでは特に「現地との繋がりがとても大事」だということも教えていただきました。
烏山さんは農業、私は教育学部でした。
自分の専門性を活かせることは何なのかを考えました。
以前、バギオやミンダナオには「祖父が日本人」というフィリピン日系人が多くいました。
多くのフィリピン日系人は、戦後ずっとそのことを隠し「中華系である」と話していたと言います。
「お母さんの国にお父さんの国が攻めてきた。恨まれる。」という思いがある人もいたかもしれません。
彼らは日本の文化を継承しておらず、日本語もまったくわかりません。
しかし、今は違います。日本に出稼ぎに行けるかもしれない。と思う多くのフィリピン人がいます。
そんな時、日本文化や日本語を教える「日系人会」というのがダバオにあり、そこで日本語教師を探していました。
大学で日本語教師の資格を取得。そして日本語教師として再びダバオへ
私は日本に戻って大学で日本語教師の資格を取りました。
そして卒業後に再度フィリピンに戻って、ダバオの「日系人会」で日本語教師を始めました。
大学時代に「資格を取るから日系人会で雇って欲しい」と話をしており、それを実現する形になりました。
両親は、日本で教師になると思っていたと思います。しかし、両親も変わりもので私の「フィリピンに恩返しをしたい」という思いは、親の倫理観にはあっているのかなと思っています。
そんな中、日本で働く為フィリピン人を日本へ送ることで「日系人会」は軌道に乗り始めました。
またフィリピンの普通の人たちが通う私立学校として上手く回るようになりました。
私はエリート主義化してきた職場に「あれ?自分がやりたかったのはこれなのか?」
やりがいはありましたが「自分でなくてもいいよね?」という思いになり退職を決めました。
20代は、ずっとフィリピンだったので修行と好奇心から「フィリピンに似てない他の国で日本語教師をやりたい」と思うようになりました。
色んな国を調べていると「ブルガリア」の日本語教師募集を見つけました。
実は、音楽も本格的にやっているのですが、ブルガリアの音楽ってすごくいいんですよ。

2006年に念願叶って、ブルガリアで日本語教師を始めました。
ブルガリアでは思った以上に英語が通じないのですが、ブルガリア語はとても難しくなかなか上達しませんでした。しかしフィリピンと全然違って、刺激が大きかったです。
ブルガリアは犯罪を犯さずに5年間働けば永住権が取得できるので、5年間はブルガリアにいるつもりでした。
その時にハウスオブジョイの烏山さんが病気で倒れたんです・・。
もしよかったらフィリピンに戻ってきて「仕事を手伝ってくれないか?あとを継いでくれないか?」という相談を受けました。
ブルガリアがとても楽しかった私はかなり悩みましたね。
でも初心に戻って色んな事を考えた時「フィリピンと烏山さんへの恩」が忘れられず「よし!」と、フィリピンに戻ることを決意。
ブルガリアの仕事を二年で辞めました。
恩師の思いを引き継ぐために再びフィリピンへ
フィリピン戻った時は、烏山さんはまだ元気でした。
しかし烏山さんは糖尿病を患い、両足を切断、人工透析で二年前に亡くなりました。

親が病気、親が刑務所に入っているなど理由は様々ですが、親と暮らせるようになるまで面倒をみる。「自分のことは自分でできる」働き者になれるように、ひとりひとりに責任を持たせて共同生活をしています。
現在は15名の子供たちがいます。

18歳を超えた後、ここで働きながら大学に通っている人や言語の障害等で就職が難しい人なども3名おり、彼らを含めると全部で20名位いますね。
ハウスオブジョイは、母体となる団体があるわけではありません。
烏山さんは長崎出身で、ダバオオリエンタルに青年海外協力隊員として派遣されたのが、ハウスオブジョイの歴史のはじまりで、日本中の大学や教会・また海外青年協力隊やJICAの方など、烏山さん個人の人脈が大きく多くの方々のご支援によって支えられています。
音楽も楽器制作もすべて独学。毎年日本でコンサートなどを行い人脈づくり
音楽は独学です。中学生の時に教会で見たフィリピン人に衝撃を受けたのが始まりです。
楽器の制作も独学ですね。

新型コロナウィルスの影響が出る前までは、毎年日本に行って講演やコンサートなどで人脈づくりも行っていました。
現在は現地に来ていただくことができないので運営も大変ですが、今でも沢山の方々がハウスオブジョイを支援してくれています。
現地での生活は毎日がキャンプのようで楽しい
ハウスオブジョイでは、家庭菜園も行っていますが、田舎なので野菜やお米は高くはありません。比較的、お肉や魚も安く特に魚はいいものが手に入ります。逆に加工品は高いですね。
食材は、スタッフが値切って買ってきてくれます。
薪で火を起こして毎日がキャンプみたいな感じですよ。
ここには、電気やガス、水道、インターネットもあります。
しかし、彼らはいつかはここを出て行きます。
彼らが田舎に戻っても暮らせるようにあえてキャンプみたいな生活を取り入れています。
もちろん今のこの時代なので、みんなでyoutube見たりゲームしたりもしていますね。
ここではあえて日本語教育はやっていないです。
彼らはそもそも学校に通っておらず、学校の勉強に四苦八苦している子に日本語を教えると重荷になると思っています。
ついていくのが精いっぱいだと思います。
もちろん、日本語を覚える根気がある子には教える可能性もありますが、全員を相手には教えないと思います。

私は今、ここがめちゃくちゃ楽しいです。
現在、コロナで出来ることが限られてしまいますが、幸いにも趣味が絵と音楽なんです。
そして近くには綺麗な海もある。
閉じ込められたのが「ここでよかった。」って思っています(笑)
場所にもよりますが、日本で演奏すると近所からクレームがでる可能性が高いですよね。
ここだと子供たちと一緒に合奏とかもできるんですよ。
だいたい週末はみんなで海に行っています。

特別、日本が嫌いなわけではなく、基本的にフィリピンが好きなんですよね。
今後もハウスオブジョイの運営は続けます。
やっぱりここは楽しいです。
ずっとこの状態が続くとは思っていません。特に焦ることはなく気長に特効薬ができればと思っています。
世界中が同じような状況に置かれたことで、その国の良さや弱点が見やすくなった気がします。
アメリカはアメリカらしい、イギリスはイギリスらしい、ある意味すごく分かりやすい時代になったと思いますね。
そんな中、「フィリピンが好き、行ってみたい。」とぜひ興味を持って欲しいですね。
例えば、ヨーロッパのマニアックな音楽を聴こうとすればレコードを買わなければいけない。買って失敗したことも沢山あります。でも今はyoutubeでいくらでも聞ける。
ビジネスについても同じで何に対しても調べることができてしまいます。
便利な時代になりましたが、それゆえに大変なこともあると感じています。
競争に勝つことだけが大事なことではありません。
フィリピンに来るといかに競争だけではないかを感じますね。
色々と調べてフィリピンの新たな魅力を見つけて欲しいと思っています。
今後の夢や目標は?

将来は、後継者を見つけて隠居したいですね。ハウスオブジョイ全体としては、そろそろ次をやってくれる若者(後継者)を探したい。
ある程度社会経験を積んでもらった上で、声をかけてくれると嬉しい人は何名かいます。
一週間、二週間滞在した人は、殆どの人たちが楽しかったと言って帰って行きますが、長くいると楽しくないことも出てくるのでその辺の覚悟は必要ですね。
例えば「フィリピン(8か月)、日本(2か月)、東ヨーロッパ(2か月)」みたいな生活がしたいです。
今のところ、後継者が見つかったとしても、日本に帰ることは考えていません。
次世代が育ってくれば、ちょこちょこ別の場所に行けるような立場になりたいです。
澤村信哉さんのプロフィール
・児童養護施設「ハウスオブジョイ」を運営
・千葉県出身
・元日本語教師
・ダバオオリエンタル在住
・似顔絵描き・楽器演奏芸人
・「楽しい思い出こそが困難を乗り越えるための糧」
お話を伺い感じたことは、澤村さんご自身が現地の生活を楽しみながら施設を運営されており「音楽や絵」を通して子供たちが持つ才能を引き出すのがすごく上手だなと驚きました。子供たちと楽器制作を行ったり、一緒に演奏したり、みんな笑顔が生き生きとしていて、また手作りのバイオリンや笛での演奏を即興で聞かせていただいたのですが、独学とは思えない素晴らしい演奏と音色に感動いたしました!天才なんじゃないかな?と本当に思います。そんな澤村さんの才能を受け継ぐ子供たちの作品や演奏も素晴らしいのです。YouTubeで見ることができますので、是非見てくださいね!現在はコロナ渦で現地に行くことができず、運営資金なども厳しい状況ではありますが、自宅からでも応援することができますので、興味を持っていただけたら是非ハウスオブジョイのホームページをご覧になってください。また子供たちとの演奏や現地での生活もブログでご覧いただけます。澤村さんへのお問合せはこちらのリンクをクリック